その日は突然訪れた。

 夏休みのお盆の夜。

 派手な打音と共に、頬に激痛が走った。

 父親がわたしを殴った。

 「いい加減にしろっ!今までお前に何をしてきてやったか忘れたのか!

 十七年間も育ててきてやったんだぞ!なのに、お前は勉強もせずにダラダラと過ごして…

 医者の娘が医者にならないでどうする!お前もそろそろ俺らに恩返しくらいしたらどうなんだ!」

 ………

 わたしは何も返さない。

 父さんは続けた。

 「明日香ちゃんが死んだからって、そのせいにして勉強しないとはどういうことだ?

 いや。そもそもお前は高校に入ってからずっと何も勉強してこなかったな。

 もっと勉強して、いい成績をとって、いい大学に入るのが一番いいんだぞ!お前は俺らに恥をかかす気か!」

 聞けた。

 やっと言った。

 とうとう本音が出たね、父さん。

 その言葉、待ってたよ。

 「あ、あなた。ちょっと言い過ぎじゃな」

 「お前は黙ってろ!お前は娘がこんな堕落した人間に育って嬉しいのか?自分の娘として恥ずかしいとは思わないのか!」

 「……ま、まぁ、確かに医者の娘なのに、こんなに馬鹿だなんて、周りには恥ずかしくて言えないわ。

 せっかく進学校に入学したんだから…」

 ……母さんも、やっぱりそう思ってたんだ。

 そりゃ窮屈よね。

 「ほら、母さんもこう言ってるだろう。お前も少しは反省をしたらどうなんだ!」

 …五月蝿い。

 「おい、何とか言えないのか!」

 五月蝿い五月蝿い五月蝿い。

 「なんとか言え、澪!」

 「……い」

 父さんがわたしに寄ってきた。

 「なんだって?」

 「う、るさいなぁっ!」

 「…なっ」

 駄目。もう何も、考えられない。自分が、止められない。

 「何なのよ、二人して。結局自分の為じゃない!

 自分の娘が馬鹿だったら、自分も馬鹿だと思われるのが怖いんでしょ!

 所詮自分のプライドの為なんでしょ!

 わたしは父さんと母さんの仕事を誇りに思ってた。でももう無理。

 二人とも、自分の為。わたしのことなんかちっとも考えてない!

 わたしは籠の中の鳥よ!翼の折れた飛べない小鳥。

 でももういい。堕ちても構わない!どうせ同じ飛べないなら、わたしは籠の外を行く!」

 父さんも母さんも驚いた顔をしている。

 でもそんな顔をゆっくり見ている暇はない。

 「待て、澪!」

 わたしは父さんと母さんの制止を聞かずに、家を飛び出した。

 言った。言ってしまった。ぶつけてしまった。

 もう何も、考えられない…

 そして、ある場所に、わたしは向かった…――

 

         †

 

 そこは両親の働く病院だった。

 今は夜。入り口は開いていないため、裏口から入った。

 そして、わたしは一目散に目指した。

 あの場所を…

 

         †

 

 屋上だった。

 夜は本来開いていないけど、わたしは星を見たいという理由でよく屋上に出ていたから、今回もすんなりと通してもらえた。

 綺麗な夜空。

 満天の星。

 雲ひとつない。

 …飛び立つには、丁度いい。

 わたしは、フェンスを乗り越えた。

 七階分の高さ。下はアスファルト。…いける。

 「…明日香、わたし、ずっと鳥になって、空を飛んでみたかったの…

 やっと、飛べるよ。行き先は、明日香の所…」

 …待ってて。

 今から、そっちに行くから…

 そして、わたしは飛んだ。

 夜の闇を。星の海を。顔を切る風を感じながら。

 「…わたし、飛んだよ、明日香…」

 

         †

 

 気づけば、わたしは真っ白の中にいた。真っ白の…彼岸花畑。

 …おかしい、わたしは死んだ筈。

 此処は、何処…?

 「ここは、《白の花畑》。三途の川のようなところだよ」

 後ろから突然、声がした。

 聞き覚えのある声…

 忘れる筈のない、懐かしいあの声…

 「……明日香…」

 振り向いた目の前に居たのは、紛れも無い、青山明日香だった。

 あの時の格好、あの時の声、あの時の笑顔。

 嗚呼、ずっと会いたかった。

 胸になんとも言えない感情がこみ上げる。

 「明日香、やっと会えた…すごく、淋しかったよ…」

 「うん、あたしも淋しかった。さよならも言えなかったから…」

 さよならなんて、聞きたくないけれど。

 だって、これからも一緒でしょう?

 でも、やっと会えたというのに、そう言う明日香の表情は、暗かった。

 何故そんな顔をするのか。

 ……聞いちゃいけない、気がした。

 聞いちゃ、いけないのに。

 唇が勝手に動いた。

 「ねぇ、どうしてそんな顔をしてるの?」

 「…」

 明日香は黙った。

 わたしも黙って、明日香を見つめた。

 そして、明日香はやっとその口を開いた。

 「…澪は、帰らなくちゃいけない」

 ……え…?

 今、なんて…?

 「どうして?どうして帰らないといけないの?わたし死んだんでしょう!?」

 「澪の…体はまだ生きてるの」

 「な、んで…?」

 …信じられなかった。あんな高さから落ちておいて、何で…

 「…ごめん、あたしが助けた」

 「…ど、どうして?なんでよ!」

 わたしは明日香に詰め寄った。

 明日香は最初は顔を背けていたけれど、ふいにわたしの方を向いた。

 「澪には生きていて欲しかった!澪には、あたしが見られなかったことを見ていて欲しかった!」

 そう言う明日香の瞳からは、たくさんの涙が溢れていた。

 そして、それは、わたしの瞳からも…

 「あ、すか…?」

 「…澪、」

 明日香が再び口を開いた。

 「あたしはもう死んでしまった。でも澪は生きている。

 それは変わりようの無い不変。

 でも、だから、澪が見た事を、あたしに報告して欲しい。感じたこと、学校のこと、彼氏のこと…」

 あっ…そういえば、明日香には彼氏が居た筈…

 今の今まで忘れていた。

 「お願い、澪。あたしの分まで、生きて…」

 その願いは、儚くて、切なくて、壊れてしまいそうなまでに、弱々しい。

 明日香のこんなに弱そうな姿は、初めてだ。

 わたしは微笑んだ。

 自分でもわからないけど、笑って言った。

 「…うん、わかった。その代わり、たまには会いに来て…?」

 わたしの願いに一瞬驚いた顔をしたけど、明日香は笑顔で頷いてくれた。

 そして、明日香は、ポニーテールにしていた髪を解いて、ヘアバンドを差し出した。

 「…この髪飾り、澪にあげる」

 「え、でも、わたし髪短いし、それに、それって…」

 「髪伸ばしなよ、かわいいから。それに、あたしが持ってても、もう使えないし。

 澪が使ってくれたら、あたしも、彼も嬉しいと思う」

 そう。

 このヘアバンドは、明日香が彼に始めてもらったもの。

 そんな大事なもの…

 わたしはそれをしっかりと受け取った。

 「…うん、わかった。髪伸ばしてみるね。…これ、ありがとう」

 そう言ったら、少し辛そうだったけど、明日香は笑ってくれた。

 「…ありがと。それと…最期に、あたしの頼み、聞いてくれるかな?」