「んっ…」

 「おぉ、気がついたようだな」

 目の前には1人の男の人の顔があった。

 なんだか近いような気がしなくもないけれど、焦点があってないのか、顔がよくわからない。

 その顔が視界から消えた。

 白い天井が映る。

 鼻には独特の匂いがくる。

 あぁ、ここは病院なのか、と分かるまでに少しの時間を要した。

 「ドクター、姫の具合は?」

 男の人がそう言うと、足音と白衣の女の人が近づいてくる。

 この人がどうやら医者らしい。

 「姫サマお久し〜。気分はどう?」

 ………

 ……えっと…

 …姫、様……?お久し…?

 意味が解らない。

 「…あの、つかぬ事をお聞きしますが…」

 「…えっ…?」

 素直に疑問に思ったことを口にしてみることにした。

 「お姫様なんて此処には居ませんし、あなたとは初対面の筈ですが…」

 二人の顔色が瞬時に青ざめた、気がする。

 頭がぼーっとしてよくわからない。

 だが部屋の空気が瞬時に凍りついたのはわかった。

 女の人がゆっくり唇を開いた。

 「じゃあ聞くけど、あなたの名前は?今まで何してた?」

 『あたし』の、名前…?

 

 な ま え ?

 

 「『あたし』は誰…?『あたし』は今まで何をしていたの…?」

 

 解らない。

 

 『あたし』はナニ?

 

 『あたし』って……誰なの…?

 

 「ドクター!!姫は…姫はっっ」

 「落ち着いて下さい、天城先生」

 男の人が形相を変えて女の人に言い寄る。

 この人達は『あたし』を知ってる。

 でも、『あたし』はこの人達を知らない。

 

 『あたし』は『あたし』を知らない。

 

 「ねぇ、ちょっと、聞いてくれる?」

 ドクターらしき人が『あたし』の眼を覗き込む。

 「あなたはどうやら事故で記憶を失ってしまったみたいね。意味わかる?」

 

 …記憶、喪失

 

 「それくらいなら…わか、ります……」

 「そう。どうやら姫サマは人に関する記憶だけがないようねー…

 あ、あなたの名前、教えておかなきゃ困るわよね?

 あなたの名前は『麻月 姫』よ。わかった?姫よ」

 「アサヅキ…ヒメ…」

 キレイな名前…なんだか勿体無い…

 『あたし』は名前通りの人間だった?

 「まぁ、今日から学校なんだから、とりあえず行ってきなさい。

  始業式は勉強ないんでしょう?サボリは駄目よー?では、天城先生、お願いします」

 ドクターは男の人の方を向いた。

 そういえば居たっけ…

 「あ、えぇ。……姫、俺はお前の学校で生徒指導部長をやってる天城(あまぎ)だ。

 奇跡的に怪我もかすり傷みたいだし…とりあえず学校へ行こう。いいか?」

 天城、先生があたしの顔を覗き込んできた。

 生徒指導部長って偉い人だよ、ね…?

 そんな凄い人とあたしは知り合いだったの?

 …取り敢えず今は、学校へ行くか、行かないか。

 あたしは考えてみた。

 学校がどういうところだったのか、あたしは学校でどんな風に過ごしていたのか。

 何一つわからないけれど…

 「…行かなきゃいけないような、気がします。

 行けば『あたし』がわかるかもしれない…連れて行ってください」

 人とどうやって接すればいいのかわからない今、学校に行くのは、沢山の人と会うのは正直、怖い。

 でも、だからと言って、じっとしていてもきっと自分がどういう人間だったのか、思い出せないと思う。

 少しでも早く、自分を取り戻したい。

 あたしは天城先生の眼を見つめた。

 「よし、じゃあ行くか」

 天城先生はそう言うと、笑顔であたしの頭の上に手をぽんとのせた。

 その手はすごく温かかった。

 

 

 

 

 

 この事故のせいで俺の人生は変わったんだ。

 この日から『俺』は『あたし』になった。

 そして、すべての歯車はもう動き始めてしまった。